歴史・文化詳細

高瀬船着場跡

菊池川と繁根木川に挟まれた玉名市永徳寺に位置する。船着場の周囲には御蔵跡、御蔵山床跡、御茶屋跡など一連の関連遺産が残っている。

 

高瀬船着場周辺は、中世には高瀬津と呼ばれており、伊倉の丹倍津とともに有明海沿岸の河港として唐船も出入りしていた。海外渡航や、貿易などで早くから重視され、南北朝時代にはすでに港としての体裁が整っていた。その後室町時代倭寇の頃には、本格的な港として成長を遂げた。

 

事蹟通考編年考微巻六の中に「正平23年(1368年)戌申2月僧絶海寓肥後国高瀬津按二高瀬津ハ玉名郡高瀬河口ヲ云昔ハ高瀬津及伊倉丹倍津ニ唐船モ来着ス 高瀬伊倉一続 濱ニテ相隔コト半里ハカリナリ・・・」「高瀬ハ異邦ノ書ニモ載セリ 図書編ニ日、薩摩之北爲肥後云々 其奥爲開懐世利 爲達加什云々 往昔此地唐船入湊入唐航海輻セシト云ウ。」と高瀬に関する記事が掲載され、中世以降肥後北部の対外的に重要な港として栄えていた。

天正16年(1588年)加藤清正の肥後入国後、大河川の治水と渡し場、米の集散場設置のため河口を改修。菊池川、緑川、球磨川を選び、その河口の高瀬、八代、川尻の三河口をつくって、産業、経済、交通の中心をこれらの地に設定した。

 

船着場周辺には菊池川流域の米の集散地として米蔵が設置され、城北産米の陸揚げと、積み出し船の発着場として整備が行われた。加藤氏の改易後、船着場は細川氏が受け継ぎ、堤防下の川岸に堅固な石畳と石垣を築き、間を切って米蔵へ通ずる石段と、米蔵より川へ通ずる石敷の坂道と川へ突出する石畳を設けた。上流の菊池、山鹿方面と玉名の一部から平田舟によって運ばれた米俵は上手の船着場より石段を登って蔵入され、蔵出し俵は「俵ごろばかし」と呼ばれる石敷の坂をころがして、停泊中の船へと積み込まれ大阪堂島の蔵屋敷へ納められた。流域から年間25万俵が集められており、高瀬御蔵から積み出された米は「髙瀬米」と呼ばれ大阪の米相場の基準となっていた。

 

川とともに発展した玉名の象徴であり、玉名市の歴史上、極めて重要な史跡である。

 

所在地 〒8650024 熊本県玉名市永徳寺字414番地15地先
お問合せ 0968-75-1136(玉名市役所教育委員会文化課)
公式WEBサイト https://www.city.tamana.lg.jp/q/aview/331/26239.html

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